新しい年、2021年が始まりました。
看護師永田です。
諏訪地方にお住まいの皆様、
日本全国の信濃の訪問看護に興味をお持ちの皆様、
穏やかなお正月をお過ごしでしょうか。(希望こもってます。)
あん ブログ はじめです。
年賀状のつもりで書き始めたら、スッゴイ長文になってしまいました。
宛先は訪問看護の神様(特定の宗教観はありませんので悪しからず。)です。
『あけましておめでとうございます。
今年はお出かけを控え、おうちでのんびりゆっくりと過ごしています。
ニュースでは連日コロナ感染者数増加、更新と騒いでいます。
訪問先のお宅でも毎日の挨拶がわり。でも…おっかなびっくり話題になる割にはどこか他人事。
ん?なんだろう、この違和感。
ひと言に感染に対する不安といっても、我々(医療従事者)が持つ恐怖感とは違うような…。
それもそうですね。仕事と生活含めて、2メートルのソーシャルディスタンスを守るどころか、
60台男性。1人で農作業していたら2日間のうち話をしたのは90台の実母だけ。なんていう環境に生きているのが茅野の山浦(ヤマウラ)の衆(しょう)ですものね。
ご自分の生活を、無菌室と笑っておられるご家族様もいらっしゃいました。
他人の2メートルのパーソナルスペース内に侵入するには、自分以外の人間のいるところへわざわざお出かけしなければなりません。
いなかの3大3密…買い物、冠婚葬祭、受診?これがリアルですかねぇ。
私のような信州の山猿が都会に行くと、
道を歩いていてふと振り向けば他人がいる!?という日常生活は、コロナでなくても「近!」
こちらは人と人との間に飛沫の届かない物理的距離や空間があって当たり前の土地柄です。
そんなところへ、”感染”が起こると…「どこそこでコロナが出た!」「あの家がそのようだ。」「昨日大勢来て消毒してたぞ…。」荒らしたアリの巣みたいになります。
ひとたび感染者が出たとなると、その事実に加えあれやこれやと家庭の内情も含め大量の情報が地域に流れ出て行きます。
今は顔を合わせなくても地球規模で光の速さの井戸端会議ができますから、あっという間。
あっという間に正しく情報が流れ、適切に対処できることが本来の目的のはず。でも…
会話の中で違和感を感じるのはここから先でしょうか。
老いも若きも地元民がコロナ対策を行う根拠に、
“死”や"病気になった苦しみ"より、
悪意ある噂の渦中で村八分の扱いを受けるのが怖いから。という本音に対し、 ん?と思うのです。
山に囲まれ、村や集落の単位で暮らしてきた地域だから、はじかれると生活が成り立たない。死活問題なのはわかります。ある意味では、種の存続に必要な本能ですから納得です。
こういったお気持ちをベースに、訪問をお断りされるケースも出てきています。(たしかに感染しない保証はありません。理由を正直にいってくださるだけでもありがたいことです。)
“古い風習、現代社会生活、生きるための本能と、感染予防”
苦しい選択です。
神様に質問です。
こんな時こそ
果たすべき訪問看護師の役割ってなんでしょう。
今できる自分に与えられたお仕事ってなんでしょう。
毎日考えています。
自分がご利用者様なら、訪問看護師にどうあって欲しいと思うかな。
お側にお伺いして、村八分なんて死語だぜーって笑いながら、隣で風習の上書きをお手伝いして欲しいかも。
こんな時代だから、向き合うことはできないけど、マスクとゴーグルして、使い捨て手袋して、アルコールシュッシュしたら手を繋いでもらってもいいかも。
今までと違うのは、丁寧なひと手間が必要なこと。
今私にできるのは、その手間を省かず、呼んでいただければせっせと訪問すること。そして自分たちが元気であること。
微力ですが、こんなふうに考えるのはどう思われますか?
あれ?神様聞いてます?寝てました?
では今年も宜しくお願いいたします。 あん 永田』